October 2009 Archives

making a new book 2

「束見本」は"つかみほん"と読んで、文字や写真を刷る前の、造本の確認のためのサンプルです。これを僕はつい最近まで"掴み本"と書くのだと思いこんでたのだけれど、それはともかく、束見本を手にすると、いよいよ本が出来るんだなと実感します。

今回は約40点のうちのほとんどを8×10(バイテン)で撮っているので、本の判形もけっこう大きくしてもらいました。いつもは8×10のベタ焼きで見ていたけれど、印刷はそれよりひとまわり大きくできそうで、そうしたら木の枝の先や葉の一枚一枚の細部が見える見える。そしてソフトカバー。
手に取ったときやページをめくる感触を確かめたり、カラーコピーを貼り込んで実際の写真の見えを確認したりで、こうやって写真が自分の中でも本というかたちとして着地していく。あとは色校を楽しみに待つだけぇ...ではなくて、実はまだ本のタイトルが決まっていません!

making2.jpg

机と壁

写真集で見せることと写真展で見せることを、写真家はそれぞれ別々の表現として楽しむわけだけれど、どちらを作り終えたら(やり終えたら)、より満足感を得るかは、各人によってたぶん分かれると思います。
その違いは例えば、印刷か印画紙か、小さいのか大きいのかという材質とサイズの選択であったり、大量生産かサイトスペシフィックかという受け手への届け方の選択になるのですが、一方で、机上で見るものか壁面で見るものか、つまり水平か垂直かという切り口もあります。

写真集はだいたい机の上で水平に置いて見ます。手に持ってみるときも、視線を下に向けて水平面を見るわけです。置く、手に持つことで写真はモノとして意識されます。紙の上にインクが盛られていて、匂いがあったり手触りがあったり、でもそこには像が写っていて、いま目の前で感じているのとは違う記憶や感触を呼び起こしてくれるものですね。それが印画紙でも同じことです。

壁に写真を掛けるか貼る場合、写真の物質性はひとまず無いものと見なされて、壁に開いた四角い窓か鏡のようなものとして向き合うことになります。そのほうが写真がもっともよく見えるからなわけですが、その場合の写真はあくまで写真のイメージのことで、印画紙とか紙であるとかいうモノの側面はノイズですから、できるだけ気付かれないようにするのが無難であるし、それが展示空間の暗黙のルールなわけです。

展示空間は絵画、とくに近代以降の絵画を鑑賞するための空間で、美術館等でふつうに展示されるようになった写真もそれに準じているのですが、それはきっと写真で可能な見せ方の、ほんのひとつに過ぎないというのがいまの僕の関心です。いや、写真に限らず、でしょうか。

なぜこんなことをと言えば、先日、川崎市の岡本太郎美術館ではじまった佐内正史さんの展示を見に伺ったからで、これはもう壮観なデスクトップビューイングでした。表面についた傷やゴミもふくめて、印画紙の表面をそこに写っているイメージとともに舐め回す恍惚。

うろ覚えですが、佐内さんはかなり昔に中京大で展示をしたときも、まるで設営準備中みたいに、額装した写真を壁に掛けずに壁に立てかけて、床置きして見せていたことがあったはず(?)で、つまり水平面と垂直面の中間で写真を見せるというようなことをやっていたから、実はこの展示空間の暗黙のルールに対して、意識的なのかもしれません。
写真はモノなのか透明な窓なのかと考えていくと、ティルマンスが印画紙を折ったり丸め たりして壁にかけている作品は、はじめて見たときはえも言われず痛快だったし、05年頃の展示からは机の上に写真や印刷物をレイアウトする見せ方をし ていて、それもまたとても興味深いのです。

(今回の話は林道郎さんの「絵画は二度死ぬ、あるいは死なない」シリーズのウォーホルの巻とブライス・マーデンの巻をすこし参考にしました。)

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