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展示と写真集

これを書いている現在、僕はひとつの展示(個展)を終えて、引き続きもうひとつの展示(グループショー)に参加中です。

「写真で制作をされている人にとって、展示で発表するのと写真集を出版するのとではどんな違いがあるのですか?」といったことを、展示開催の前後に何人かに聞かれました。この質問は写真ならではと思います。「俳優にとっての舞台と映画みたいなものでしょうか?」と言う方もいましたが、それは..どうなんでしょう。

ブックフォトグラファーとウォールフォトグラファー。そんな言い方をたしかAlec SothYoutube上のインタビューかなにかで話していて、その感覚は世界の写真家にある程度共通なのかなと思ったことがあります。僕もどちらかと言えばブックフォトグラファーだと思っています。写真を写真集というかたちでまず吸収してきたし、次にこんな写真集を作りたいという願望と次にどんなシリーズを撮っていくのかをセットに考えることが多いです。本を作り終えることで、その一連の写真群を閉じることができるとも感じています。

写真集にまとめたいと思うのは、本という形式の「もの」としての魅力、個人の生活空間へすっと潜り込める魅力が大きいです。写真集を書籍のいちカテゴリーとして、小説や漫画と並んで一般に流通させることができるということは一番の誘惑かもしれません。美術館にしろアートギャラリーにしろ、足を運ぶのは社会一般のなかからソートされた狭い層、アートを見るルールを暗黙のうちに理解している人に限られてしまいます。

ただそれでも、展示の場でプリントを見せることには替え難い魅力があります。

パッと会場に立った時に見える全体。近づいて一点の写真の前に立ってじっと眺め、さらに近づいて細部に見入る。一枚一枚の葉っぱや遠景の建物の窓の反射。さらに目を近づけてプリントの表面のツヤや印画の粒子に物質を確認し、そしてまた身を引いて、隣にならぶ写真や背景の壁の肌理を視野に入れつつあらためて眺める。
そのような、体の動作の連続と見えるものの連鎖が生む空間に配慮することで、日頃、自分が撮影をするときにしていることを、自分の写真を見てもらうという場において、写真を見る人に追体験してもらえるかもしれないという淡い欲求は、展示という場所でしか問うことができません。

で、ここ最近は展示をするときに必ず展示スペースの模型を作っています。なぜわざわざ?と思う方もいるでしょうし、模型を作らない作家さんもたくさんいます。

これは目黒区美術館で開催中のメグロアドレス展のためのマケットです。

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写真は本来的に、大きさと点数はいくらでも調整可能です。美術空間で絵画・版画とともに平面作品として扱われる手前、サイズを決めないといけないし、作家としても決めたほうがいろいろ楽という面もありますが、ほんとうはサイズ可変(dimension variable)とでもしとけばいいと思っています。

他のメディアよりも潜在的に展開の自由度があるなかで、与えられた壁に対して、写真が多すぎやしないか、少なすぎやしないか、壁にしっくり納まっているかなど、写真点数・大きさ・自分が見せたいこと、この3つを満たす最適解にできるだけ近づいておくためには、マケット上で思案するのが最も合理的と思っています。
(3つといいましたが、ほんとうは4つめに「予算」という要素があります。写真は新たな展示に際してどうしても出費が嵩みます。展示空間を作る欲求と自腹額との板挟み、ここにいつも悶々とします。)

これはepSITEのためのマケットです。☟

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自分はブックフォトグラファーと言いましたが、じゃあ展示は写真集の順番通りに写真を並べればそれでいいのかというと、そうは考えていません。展示における視野のつながりは必ずしも線的ではないので。展示を成立させるためには、写真集を作るために必要なシークエンスをつくるスキルやグラフィックデザイン的スキルとは別の、あえていえば建築的なスキルが必要だと感じています。なにもない部屋に窓をどのくらいの大きさでいくつ作ればしっくりくる空間になるかという感じです。
先に、展示を見る際の動作と見えの連鎖のことを言いました。建築ではヒューマンスケールという言葉がありますが、人がある場所に立ったときの、壁や天井や光から受ける印象は平面図では追いきれません。もちろん、マケットを作ったりしたくらいでも追いきれないのですが、すこしだけ、解に近づいておける気がしています。
作品を観る人のなかで、近づいたり遠ざかったりするうちに生じる感覚の肌理の変化を想像しながらプランを練り、現実空間に落とし込んでいくのは刺激的です。

自分もいち鑑賞者として、そんな展示を見たいといつも思っています。

長くなりました。最後に先日終了したepSITE「mapping TAIPEI」展の展示の様子を載せておきます。

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"A TREE OF NIGHT"について

先日、写真のサイトphoto-eyeにて「A TREE OF NIGHT」のブックレビューが掲載されました。英文のサイトはこちら(→)で読めます。そのうち時間があったら部分的に翻訳したものをここに転載したいのですが、それはさておき。

前回のエントリーにて、5月のBroiler Spaceでの個展の、2階部分の展示についてお伝えすると書いておきながら早2ヶ月。2階ではこの「A TREE OF NIGHT」の写真を展示していました。ですのでここであらためて、展示の様子と、そのもととなっている写真集について、簡単に書いておきたいと思います。

 先のレビューにも書かれているとおり、この写真集はスナップ写真と、視覚障害者のための点字小説の接写写真から構成されています。点字小説は、トルーマン・カポーティの短編集『夜の樹(A Tree of Night)』です。

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なぜ『夜の樹』なのかとは出版後にたびたび聞かれることです。
まず世界的によく知られていて、そのタイトルだけで「あの小説では」と類推できるようなものであることがひとつ。また時代が現代または戦後のものであること。そして長編よりも短編、できれば悲劇ではないこと、など。そんな要件を満たし、かつ点字小説化されているものをと探したときに、それほど多くの選択肢があったあけではありません。もちろん、僕がこの短編集をその表題も含め好きだったというのがいちばんの理由かもしれません。
その文中から、とくに視覚的な描写、聴覚的な描写がされている箇所を抜き出しました。例えば、
雨が降っている、という部分や、水の音、かごのなかの鳥、あるいは死者の目について。
そのリストを頭にとどめて対応する写真を撮影していますが、その一致の仕方はまちまちです。

さて、Broiler Spaceでの展示の様子です。
点字の写真は、このために作り付けた台上に置き、その頁と対応する写真を壁に貼りました。

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壁面の写真と机上の写真というのは、展示における引き続きの僕の関心事です。
視覚障害者が点字本を読むとき、本は机の上に置いて、指で触れてその凹凸をなぞるものです。
この写真集を展示空間に展開するとき、壁と机で置き分けるというのは、ややあざといのではと思うくらいに自然に出てきた方法でした。
これが成功していたかどうかは、実際に展示をご覧いただいた方々の判断に委ねるしかありませんが。

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写真と盲目ということについて考え始めたのは、じつは僕が写真を撮り始める前にまで遡ることなのですが、Sophie Calleの「The Blind」という作品を見たことが大きなきっかけです(最初に図録で見て、その後、実際に展示で見ることができました)。どのような作品なのかは、検索すれば出てきますし、水戸芸術館の「脱走する写真」展(1990)の図録もあるのでここでは説明しませんが、とても印象深い作品です。その後自ら写真を撮るようになりましたが、この作品のことはずっと頭にありました。

目が見えない人が "みる" 世界を見ようとすること、それは「写真ってなんだろう」という問いを延長していったときの、一方の突き当たりにある扉なのだと思います。そして今回の写真集と展示を経たからといって、すぐにその扉の前から引き返すわけではありません。

 あとひとつ。この写真集の制作中に出会い、ノートに書き写しておいた言葉を孫引きしておきます。『写真との対話』という本のなかで、キュー・リーという方の論文に引用されていた、スーザン・シュルターという生まれつき盲目の英作文教師の言葉です。

"読書は私の写真です。読むとき、人々が写真を見て感じると私が想像する感覚を、私も味わっています。読んでいる文章の場所に、運ばれていくのです。読書は私とすべての場所をむすぶ橋です。"(『写真との対話』図書刊行会 P.179)


「遠近」展について

先日終了した、Broiler Spaceでの展示の様子を載せておきます。
今回の展示は1Fと2Fがあり、それぞれ別のことを扱う展示となっていました。

1Fの展示は、先の
地震がモチーフです。
3月11日の地震と、とくにその直後に起こった原発事故は多くの人にとってそうであるように、自分もその余波が及ぶ場所にいたことで、否応なく生活に深く入り込んできました。津波が押し寄せ、さらわれて瓦礫の山と化した町の映像・写真や、超望遠で撮られた原発の事故の様子をテレビ新聞でショックとともに繰り返しただただ傍観するしかない2ヶ月のうちに、このタイミングで展示という機会があるなら、いま頭と網膜を覆っているこのことを扱わなければ、作り手として不誠実だろうと考えました。自分ができる最良のことは作品を作ることでしょうから。

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1Fの入り口近くに掛けた、遠景の山並みの写真2点は、4月に福島で撮ったものです。
画面の中央、水平線の真ん中に福島第一原発があります。昼間の写真(上右)はそこから18km離れた山の上からのもので、かすかに白い建屋が見えています。もうひとつの夕暮れの写真(上左)は30kmの地点から。もう原発は手前の山にかくれて見えません。

もっと近づいて、屋根の吹き飛んだ建屋を撮ることも可能だったでしょう。でも僕にはこの、何度も報道で見聞きした20km,
30kmという仮想の線、この遠さが、とても切実な距離のように思えたのです。


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壁をへだてて奥のパートは被災地で撮影したものではありません。

地震以前にこの展示のために準備していたものと地震後に撮ったもので構成しています。
写真を見ることは、そこに写っているものに見入ると同時につねになにか別のことを思い出すことです。この震災後2ヶ月のあいだで、なにかを見ること、写真を見ること、そしてそこから想起されるものが、散り散りに崩れながら変化していくようでした。

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原発事故の映像に接して感じたことのひとつは、まさに起こりつつあることがもう目には見えないんだということ。そんなことは今に始まったことではないのですが、この印象は、以前スーパーコンピューター(4点組の右下)を撮影したときにも感じたことです。

いま起きていることは見えないし写真には写らない。
そんな話をしたら、人から「写真の無力を感じたのか」と聞かれ、そのことが先日来、妙に気になっていたのだけれど、無力感とかではないといまは思います。

そう、地震の後。つい、無力と言ってしまうのです。
けれどはじめから誰かの力になれると思って写真を撮っていたとでも?
写真になにがしか他を動かす力があったとしても、それは自分が写真を撮る理由ではなかったし、たぶん、自分が写真をはじめた時、すでに写真は無力だったのだと思います。
僕は、自分にとって、いま、抜き差しのならないなにかを見たい
だけです。


(2Fの展示はこんな感じでした。詳細はまた後日アップします。)
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「日本写真集の現在」展の様子

去る4月27日から5月8日まで、パリのle balで開催された「日本写真集の現在 (Japanese Photobooks Now)」展の様子です。

この展示では、過去ほぼ10年の間に日本国内で出版された100冊ほどの写真集を16のカテゴリーでわけて、来場者が手にとって頁を捲れるようになっていたそうです。僕は2冊を出品しましたが、『A TREE OF NIGHT』は「Silence & Sight」というくくりで。もう一冊の『光と重力』は...なんだろう?聞くの忘れてしまいました

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「ひととき」展 installation views

1月12日より1月23日まで、千葉・稲毛で開催中の「ひととき」展の展示の様子はこんな感じ↓。
日没後に撮ったので暗いですが、日中は窓から外光が入るようになっています。


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